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●1991年1月
  彼が、当時は神戸元町にあったボクの制作スタジオに知人に連れられて来たのは1991年1月28日のことです。直前の知人からの電話はこうでした『ヤマグチさん!実は、去年の総選挙で落選した人なんですけど、ヤマグチさんのことを話したら、是非会わせてくれ…と言うので、今から、そちらに連れて行ってもいいですか?』20分程して、その知人と共に、やって来ました。30歳と電話で聞いてたのですが…「ちょっと老けてるなあ…」と感じました(苦笑)頭が若白髪で目立ってたのです。
  『それで、去年の総選挙では何票獲ったんや?』ボクが先ず、一番関心事です。彼は、屈託の無い笑顔で、照れくさそうに『3万5千程ですわ!』『他の候補者は?』と畳かけて聞いた。『定数3でしてな、トップが社会党現職で16万4300票、二位が自民党現職で15万1500票、三番目は公明党現職で11万9700票ですわ!その次が共産党で、9万8900票でんねん!』『なんじゃそりゃ!(苦笑)完全な泡沫候補じゃなーーー!!』と言って、ボクは笑ってしまいました。
  ボクは質問を続けました。『ほんで、去年の2月の選挙では、どんな運動をしたんや?』彼はまた、屈託無く笑いながら『いやー、ほとんど何もしてまへんねん!事務所変わりに、近所の喫茶店を借りましてな、そこでワイワイがやがやと喋ってばっかししてましたんやー!!』と…きた。『ほんで、オマエさんは、なんで政治家になりたいねん??』この質問には、彼はこう答えました『私ね、努力の報われる社会にしたいんですわ!』と同時に、彼の幼い頃の体験談、体が不自由だった祖父からいろいろ聞かされた話とか…を彼は話しました。
  まあ…動機は「清純」でした。『ところで、次に向けての資金はどれくらいあるんや?衆議院選挙は、やっぱし、最低でも1000万円は要るぞ…法定費用ですら…1500万円までOKなんやから!どうや?』ココで又、彼は屈託無く『あと40万円しか、おまへんねん!!去年の選挙で残った金で食いつないでまんねん!!』世の中には「大物」がいますわ。この時、ボクは「こいつ!ひょっとしたら大物になるかも!?」と思いました。しかし、ボクは代議士志願者には基本、厳しいです。なんせ国の「命運」をかける政治家なのですから…『まあ…3万5千からのスタートはかなり厳しいが…やったってもエエで!但し、タダではでけん!コンサル料は、毎月4万円貰う!!40万しか無いと言うても、それは厳しくするぞ。何でや言うとな、国政目指すちゅう若者で、魅力がある男なら、カンパが集まらなアカンし、集まらんような男なら辞めた方がエエ!政治家はそうでないとアカン!まあ、資金集めのやり方も教えたるから…契約するなら、その月4万円は払え!なんとしてでも…エエな!それから、契約する気になったら、今度ココへ来るときは、オマエさんが、もし当選したら、「秘書」にするつもりのヤツを、本人にもその気にさして、連れて来い!選挙までは、主に、そいつを窓口にして、イロイロ連絡や、指導をするから…エエな!』

●1991年5月
  それから、彼が再びボクの制作スタジオに、その「秘書候補」も連れて来たのは、その年の5月でした。この間、彼は4月にあった統一地方選挙の応援や、資金集め等もしていたのでしょう。また、後々、彼から聞かされたのですが、彼は知人の「占い師」に、ボクとの「契約」についてお伺いもしたらしく…その人がボクを占って、「オウ!いけ!コイツはホンモノだ!」と言ったらしく…それも後押しになったと述懐しました。実は、その「占い師」は、ボクもその後、付き合うことになったのですが…誠に不思議な方で、もう亡くなられてますが…いろんな逸話があるのです。当時の沢山の大阪経財界人が彼の「占い」のお世話になってたのも事実です。
  そして、1991年5月16日、彼とのその後3年間のコンサルタント契約を締結しました。ボクは選挙はだいぶ先だと思ってたのです。まあ…とにかく、この僅か3万5千票の基礎票からのスタートは大変です。先ず、ボクは彼に『とりあえず、今の君の肩書きでは、弱い!まあ大阪の名門大学は出てるけど、前回無所属で出たが…首長選挙ならいざ知らず、衆院選で無所属は駄目や!よほど強い地盤や支持団体があるなら別やけど、なんもないわな?今までオマエさんの話聞いてたら、オマエさんは、完全保守の人間や!どちらかと言うと、自民党的や!そこでやなーオレも当たるし、考えるから、オマエさんの人脈で自民党の代議士はおらんか?その人の秘書にしてもらうんや!代議士秘書の肩書きは、国政には向く!現役国会議員も約30%強が、秘書出身やし!な!そうしょう!ほんで、その代議士が地方の選挙区の人なら、その代議士の大阪事務所の秘書ということにして貰ってな…資金も集めたらエエねん!』
  その日から、彼のイメージ戦略構築がスタートしたのでした。勿論、かなり激しい運動をやらないと当選は無理なので…「ドブ板戦術」も詳しく指導しました。この翌日から、彼は朝の駅立ちもスタートし、この日から、選挙までの約2年間
  毎日欠かさずに、実行しました。相当の「胆力」があります。


●1992年初春
  事前運動は、順調に進んでいました。よく理解力のある、クレバーな「秘書候補」が会社を辞めてまでして、彼の懐刀として、右腕として、よく働き、かつまた、彼を戒めもし、ボクの作戦についてきました。彼とこの「秘書候補」は元々、地元の青年団の仲間でした。まあ、まだ村社会の残る地盤だったということです。また、彼の地盤のトップ当選の代議士は、その選挙区の最大労組の松下電器労組を出身母体とする強力な強者。また、自民現職は環境庁長官という大物代議士だったのです。そして、公明党は新人に替わりましたが、この大阪こそが最大票田です。こんななかでの戦いは、ほんとうに容易ではありません。神風が吹かない限り…という感じでした。彼は、松下政経塾の出身ですが、松下労組には敵いません…(苦笑)
  そんなこんなで、まもなく運動スタートして、一年が来るという1992年の初春、彼から電話がありました。『モシモシ…あのですね…実は、政経塾のほうからの話なんですけどね…・元熊本県知事の細川さんがね…新党結成…政経塾もかんでましてね…ほんで、どうや!ちゅうことを言って来てるんですけどね…どんなもんでっしゃろ!?』この電話の時は、まだ「日本新党」という名前も出ていません。ボクも「熊本で新党結成の動きあり!」という、まことに小さい記事が新聞に出た位でした。ボクの返事は「即答」でした。『それに乗れー!!神風になるかもや!!その話乗っとけー!!』なんの迷いもありませんでした。彼もその迷いヒトツ無いボクの大きな声で『判りました!その方向で行きます!!』でした。
  それから、数ヶ月して、大きな記事となりました。1992年5月のことでした。「日本新党」が誕生したのです。

●日本新党に勢い!!
  我々の判断は誤っていませんでした。その結党後間もない、7月の参院選で、ミニ政党とは言え、4議席を獲ったのです。今の大阪維新ほどの勢いはありませんが…政治の閉塞状態は、似ていました。
  ココで、またボクはイメージ戦略の構築を一からやり直し…日本新党のカラーを「前面」に、そして「全面」強く押し出す戦略で進めて行きました。もうこうなったら、すべて「行けーーー!!行けーーー!!」です(苦笑)
  資金の関係で、全市全戸ビラは、なかなか実施は出来なかったですが…候補者本人の「露出」は、コレはもう100点満点に近いものです。なんせ、他の現職は国会多忙、ましては、最大のターゲットとした自民党の環境庁長官は大臣ですから、ほとんど地元に帰ってこれません。彼は、毎日、毎日運動が出来るのです。そりゃ、差が出てくるのは当然です。彼が真摯に、一生懸命な運動をすればするほどです。
  そして、翌年6月18日に衆議院は解散。その同じ6月27日投票の東京都議選で、なんと日本新党は22人立候補して、20人も当選!総選挙の「前哨戦」と言われた選挙で大勝利を果たし、都議会の第三勢力になったのです。「追い風」です「神風」が吹き始めたのです。そして。7月4日に公示され、7月18日投票の「中選挙区」選挙としては最後の戦いが始まりました。


●『行けるー!!行けるーーでー!!』
  公示直前に、やはり有権者動向調査を実施しました。しかし、この陣営は、資金不足だったので、予算に見合った方法でしかできませんでした。そこで、ボクは選挙区の中での「大票田」で、しかも、前回総選挙で、16万4000強の得票でトップ当選した社会党現職が最も地盤とするエリアだけに絞って、有効回答150だけの調査を実施しました。ココでイイ戦いをしてれば、勝利はあり得ると思ったからです。
  結果は驚くものでした。先ず、知名度ですが、社会党現職と自民党現職は76%、公明党新人は41%。まあ順当な数字とは思います。我が候補は、36%の知名度でした。しかし、しかしなのです。驚くのはこれからです。重要なのは支持度です。これで「勝負」は決まります。なんとなんと、我が候補は、公明党新人と同率の19.2%でトップだったのです。選挙運動もこのエリアを最重点区にやってきましたが、それが成功してたようです。ちなみに、社会党現職は11.5%、自民党現職は7.7%でした。そうです、最大のターゲットにしてた自民党現職大臣にトリプルスコアに近い数字で支持度が勝ってたのです。この「結果」を持ち、選挙事務所で候補者と会い、『行けるでー!!行けるーー!!』とハッパをかけました。そして、結果は、一位当選131、714票公明新人、2位当選111、491票、三位当選我が候補104、165票。定数3名の3番目に滑り込んだのでした。自民党現職大臣は88,927票で次点でした。この選挙では、あと共産党候補他3名も立候補する激戦でした。
  この選挙で、この候補者の右腕として奮励努力し、献身的な活躍をした「秘書候補」の彼が、当選後は公設第一秘書となったのです。
  後に、不思議な縁が明らかになりました。彼が「泡沫候補」に終わった落選した選挙のお手伝いに、偶然ボクの姪がボランテイアで手伝っていたのです。彼は、某国立大の野球部出身。その選挙の時の現役野球部のマネージヤーを姪がやってて…その先輩の選挙ということでです。
  それから、ここの「勝利の記録:VOL9」の当選した主人公も、彼が学生時代に、ボランテイアでこの「泡沫候補」の時の選挙を手伝ってたそうでした。




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